学校、職員室、研究大会に行くと必ずこんなフレーズを聞きます。
「子どもを鍛える」
ぼくはこの言葉があまり好きではありません。
きっと子どもを鍛えることを目標に担任をしている先生に当たったら、伸びる子もいる反面、凄くストレスを感じる子もいると思います。
こんな先生がだめと言っているわけではありません。
ストレスを感じる子もいて、そういう子へもケアができるという熱い先生なら素晴らしいですよね。
なぜ鍛えるのか?
「子どもを鍛える」
「子どもを育てる」
どちらも向かっている方向は一緒な気はするが、なんだか違和感。
鍛えるってなんだろう?
鍛えると言われると連想するのが筋トレ。
筋トレのイメージだと、重い負荷をかけて、筋断裂を起こさせて、超回復させる事で筋肥大する。
つまり、子どもにとってきつい負荷をかけて、一度自己崩壊させて、そこから這い上がらせるってことか?
だとしたら、崩壊させて這い上がれない子はどうなる?おいてけぼり?
うーん、だから違和感を感じるのかな。
子どもたちを鍛えて、こうなりましたって、教員の自己満足じゃないといいな。
周りから、私はこんな子を育てるほど指導力ありますよって思われたいからやるんじゃないの?
もちろんそりゃ、周りからそう思われたくない人なんていないけど、
でも、子どもを中心に考えて欲しい。
子どもを育てる人でありたい
だから、
育てる
って方がよっぽどすんなり受け入れられる。
体育会系じゃないからかな。
その人が発する言葉の端端から教育観が見えてくる。
この人は
子どもを引き上げることで満足する人か、
子どもと伴走することで、成長する姿を見て満足する人か。
ぼくはやっぱり後者でありたい。
子どもを育てることは、日本の未来を育てること。
子どもを育てる人でありたい。
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